共働き夫婦vs少年サッカー

共働き夫婦による、小学生(5年生)のサッカー生活との格闘の日々を綴ったブログです。

自立と自律

こんにちは、ジョーンだ。

第45回 「自立」と「自律」、読み方は同じだが意味は少し違う。

お気づきかとは思うが、今回は常体で書いていくことにする。

 

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「自立」と「自律」

自立・・・自分だけで物事を行うことを意味する。精神的自立、経済的自立、親元を離れて自立して生活する・・・などのように使用する。「じりつ」というとまずこちらの字が浮かぶのではないだろうか。

自律・・・自分をコントロールして物事を行うことを意味する。コントロールするというのは、自分であるルールを決めてそれに基づき行動するということだ。自律神経、自律性を発揮する・・・などのように使う。

「自立」が、単純に様々な行動を自分だけの力で行うという意味の言葉であるのに対し、「自律」は、自分で考え、考えて導き出した自分なりの答えに基づき行動するという意味を持つ。この「自分で考える」という部分が最大の違いであろう。

 

小学生の年代においては、様々な面において、まずは「自立」することを目標にされているように思う。それまでは親や先生にやってもらっていたことが、次第に自分の力で行うことができるようになる。

私の子どもたちを例に出すと、1年生の時は自分でシャンプーすると、登頂部だけしか洗わないため洗い残しが多く、できたとは言い難い状態だったが、今では頭全体をシャカシャカしすぎて泡がすべて飛び散り、終いには頭を濡らしただけなのではないかと思うような有様だ。しっかり洗えるようになった。

シャンプーは日常生活のほんの一部の些細なものだが、こうしたものを一つ一つできるようになっていくのが「自立」だ。

 

「自律」は難しい

大人でも全てにおいて「自律」するのは難しい。世の中の流れとか、風潮とか、周りに流されて行動したほうが楽であり、責任から逃れられるからだ。

俗に言う「指示待ち人間」は、自律ができていない者のことを言うのだろう。上司の指示に従っておけば大抵うまくいく(とは限らないが)し、怒られずに済むから、自分で考えることをしないのだ。

 

私の長男、ジョン也は、自分で考えて行動をすることが全くできない。

まだ小学生だが、既に高学年となった。自律性が育っていないことには薄々気づいてはいたが、高学年になれば少しは自分で考えることができるようになるだろうとたかをくくっていた。しかし全くそこの部分が延びていない。

中学、高校に進学すれば、自律性を求められることが増えてくる。さらには社会人になったらもう親を頼るわけにはいかないのだ。

 

ジョン也よ、その時に困るだろう?

サッカーでも、コーチからうまくいかなかった部分をどうすればいいのか、自分で考えろと言われてるんだろ?

なんでそう言われるか、考えたことあるかい?

 

まず親が変わろう

ジョン也がこうなってしまったのは、我々親の責任だ。ジョン也が何かやらなければならないことがあったとき、我々親が我慢できずにすぐに答えを与えてしまっていたり、行動を指示してしまっているのだ。

なぜなら、勉強にしても、忘れ物をしないとかの生活面にしても、我が子のできない部分を学校の先生や周りの父兄にみられたくないからだ。○○さんの子はしっかりしてるね~と言われたいのだ。

我々「親」が。

ジョン也、すまなかった。

私たちが子どもの自律心を奪ってしまっていたのだ。

 

この事について先日妻と話をした。

そこで今後はこうすることにした。

1《親は子どもの思いや決定をできるだけ尊重する》

2《あれこれ口を出さない、なにもしない》

3《できなくても我慢する》

今まであれやれこれやれと言われていたから、ジョン也は戸惑うだろう。先生に叱られることもあるだろう。恥ずかしい思いもするだろう。

その結果、不安定になることもあるかもしれない。

でも私たち親は教えない。口を出さない。我慢する。

だから頑張れ。考えて考えて自分で解決してみろ。

 

100%このようにすることはできないかもしれない。危険と判断したら修正はしてあげる必要もでてくるだろう。

でもとりあえずこれでいく。

この判断は間違っているかもしれないけれど、何かを変えなければそのままだ。

まずは私たち親が変わってみるんだ。

 

 

ではまた明日!